Holy Ghost Disturbance
シーンA
 生暖かい風に乗って、生臭い匂いが舞っていた。
 ひでぇな。
 声に出さずに、そう呟いた。
 ベルナの郊外に広がる森の中、無数の肉片が飛び散っていた。
 生きたまま、切り刻まれたようだ。
 転がった少女の首には、苦悶や、恐怖の色は見えない。逆に、笑っていた。際限なく続く痛みに、心のほうが、先に砕け散ったのだろう。
「二人目だっけか?」
 エイセルは視線を上げ、傍らの男に問うた。屈強な体躯を持つ、禿頭の中年男。名前はリーブ。ベルナの古書店の店主であり、同時に自警団の長も勤めている。
「三人目だ」
 不機嫌な口調で、リーブは応じた。
「そっか」
 こちらは無感情に応じた。怒りはなかった。むしろ、戸惑いのほうが強い。どうにも行き過ぎていて、どうも現実感がない。
 本代のツケの帳消しを報酬に、夜警への参加を初めて、四日目の夜だった。
 人間じゃ、なさそうだな。
 鬱蒼と茂った木々の枝から吊り下がった、白い糸のようなものに手を触れた。
 ねばついている。恐ろしく太い、蜘蛛の糸のようだった。
「やはり、魔将か?」
「それっぽいんだけどな。だとすると、妙だ」
「なにがだ?」
「エルシュリクの結界を無視してる」
 ベルナの周辺には、魔将の侵入を阻止するための結界が張られている。それほど強力なものではない。効果はせいぜい獣よけの火くらいのものだが、それでも、侵入者があればなんらかの反応が出るはずだ。今日も出掛けにジークに様子を聞いて見たが、特に変わった動きはないと言っていた。
「魔将では、ないということか?」
「断言はできねぇけどな。そういう可能性もありそうだ」
 具体的になんなのかは、確信が持てないが。
「では、なんだと」
「わからねぇよ。馬鹿でかい蜘蛛ってこと以外は」
 現場に残っていた足跡から見て、足は八本だ。ついでに粘糸を使う。とりあえずは、蜘蛛だろう。ただ、食うならともかく、餌をひたすら切り刻んで、嬲り殺して行っているあたりが、どうにも理解に苦しんだ。
 そのまま調べを続けていると、周囲の探索にあたっていた自警団のメンバーのひとりが、駆け戻ってきた。
「リーブさん!」
「どうした」
「不審な男を捕らえました」
 それと同時に、木立の陰から、二人の自警団員と、ひとりの老人が姿を見せた。
 気の良さそうな容貌の、小太りの老人。一見、ドワーフに似ている。
 左右から槍を突き付けられ、憮然とした表情をしていた。
「お主が頭目かの?」
 視線と、声音が強い。鋭いと言ったものとは少し違うが、確かな芯の存在を感じた。
「質問をしているのはこっちだ。こんなところで何をしていた!」
「何度も言っておるんじゃがの。近道をするつもりで道を間違えた。山道を散々迷い歩いて、やっとここまでたどりついたところじゃよ。ようやく街の灯が見えたと思ったら、お主たちが出てきおった」
「健脚なんだな」
 散々迷い歩いたわりには元気がいい。
「槍、降ろしてやってくれ。関係無さそうだ」
「どういうことだ?」
 リーブがたずねて来た。
「爺さん、ちょっといいか?」
 一応断ってから、老人の頭、帽子に手を伸ばした。
「アカザイの葉っぱだよ。このへんだと、クリーナ山の麓にしか生えてない。ここから大体四時間の距離だ」
 変色具合から見て「偽装用」にあらかじめ摘んでおいたということもなさそうだ。
「少なくとも、今の話に嘘はねぇし、ついでにドワーフだ。蜘蛛じゃない」
 それで、納得したらしい。団員二人が槍を降ろした。
「すまなかったな。変な歓迎しちまって。俺はエイセル、でこっちが自警団のリーブ。通り魔が出たばっかのとこで、殺気立ち過ぎた」
「いや、わかってくれればかまわんよ。さすがに、これを見ればワシにもわかるでの」
 老人は痛ましげな表情を浮かべて、飛び散った死体の姿を見やった。
「魔将かの?」
「いや、よくわかってねぇんだ。たぶん、蜘蛛みたいな奴だと思うんだが、ヘンな足跡とか見なかったか?」
「いや、なにも見とらんの」
 老人は、首を左右に振った。
「そっか、悪かったな。詫びっていうのもアレだが、宿まで案内する。ついてきてくれ。いいよな? リーブ」
「ああ」
 リーブがうなずいた。
「じゃあ行くか。爺さん、名前は?」
「ティキ」
 そう名乗った老人は、小さく咳払いをして、こう付け加えた。
「エルフじゃ」

 ベルナに向かう道すがら、周囲に人の姿が見えなくなるのを確かめてから、口を開いた。
「爺さん」
「何かの?」
 穏やかな表情で、ティキは問い返してくる。話して見ると、見た目どおりにひどく人当たりがいい。旅の発明家で、今はシャヌーン近辺で大きな仕事をしているらしい。ベルナに来たのは、そのための資料と資材集めの為だと語っていた。
「なんか、知ってるだろ?」
「嘘は、言っておらぬよ」
「あんたを疑ってるわけじゃない。知識として、心当たりがあるって顔に見えただけだ」
「勘がいいようじゃの」
 苦笑するように、ティキは応じた。
「お主の言う通りじゃよ。まさかと思うていることならばある。じゃがワシ自身が、今はまだ、半信半疑じゃ。伝えるには、まだ早い」
「あてずっぽうでもかまわないぜ? なんにもないよりましだ」
「中途半端な考えで、惑わせたくないんじゃよ」
「頑固だな」
「そうかの?」
 とぼけるように言い、老人は微笑した。
「ベルナには、どれくらい居るんだ?」
「一週間くらいかの」
「わかった。またなにかわかったら、伝えに行く。話くらいはつきあってくれ」
 強引に、そう言った。
 確信が持てるまでは、話さない。逆に言えば、確信を得るだけの情報があれば話すと言うことだ。
 そのまま、宿へと入ったが、宿泊を断られた。
 通り魔騒ぎで、大分用心深くなっているようだ。独り旅の人間を警戒したらしい。
「今夜も野宿かの」
 さして気にした風もない口調で、老人は呟いた。
「そういうわけにも行かねぇよ。また捕まるぜ?」
「それは困るの」
「もうちょっと歩けるよな?」
 まぁ、ある意味好都合だ。少なくともベルナに滞在している間は、目の届くところに居させることができるだろう。ジークに頼めば、同族のよしみで適当な部屋を借りられるはずだ。

 部屋の端に置いたコップに落ちた小石が、中に溜まった小石とぶつかり、鈍い音を立てる。
 十の八か。
 悪くはないが、たかが部屋の中での小石の移動。完璧にこなせなければ使い物にならない。
 テレポート。
 エゼクの怪物と呼ばれた少年が最も得意とする呪文だが、こうして自分で試してみると、あらためてあの少年の凄まじさが理解できた。切り合いの最中に、自分自身を跳ばす。とてもではないが、真似はできそうにない。今の技量では、時空の狭間に飲み込まれて、それで終わりだろう。
 嘆息して、窓の外に目をやる。大きな月が目に入った。
 大分、遅くなってしまったな。
 そろそろ寝ないと、明日に差し支える。膝の上で広げていた魔道書を閉じて、椅子を立った。
 視界の端に、動くものが見えた。寮の部屋の窓を開け、前方の広場を見下ろすと、その真ん中に、一人の少女の姿が見えた。
 どこから、迷い込んだ?
 銀色に近い色合いの、灰色の髪と長い耳、そして大きな尻尾。獣人だろうか、エルシュリク魔法学校の生徒ではないのは間違いない。エルシュリクにいるのは人間とエルフだけだった。
「なにをしている?」
 声をかけると、少女は驚いたような表情でこちらを見上げてきた。かと思った次の瞬間、跳んだ。化物じみた跳躍力で、三階の部屋の窓の手すりに取り付く。



 妙なものが見えた。
 額の真ん中に、金色の目がある。
 聖獣、だと?
 何百年も昔に、滅びたはずだ。唯一の生き残りであったというオレンジストーンのレインも、三年前のデビルダスとの決戦以降、行方不明だと聞いた。
「ウチが見えるん? 魔術師の兄ちゃん」
 手すりに引っかかった格好のまま、少女は言った。何故か、尻尾を振っている。
「見えなければ声などかけない。それと、私は女だ。もうひとつ、あがりたいならあがれ」
「ええの?」
「そこにぶら下がられるよりましだ。腐りかけている。落ちても責任は取れない」
「落ちても平気やけど?」
 少女は笑って言った。
「そういう問題じゃない」
 手を差し伸べるが、少女は首を左右に振った。
「ありがとうな、けど、触れへんから」
「どういう意味だ?」
「こういう意味や」
 少女は片手でこちらの手を掴む仕草をした。だが、なにも感じない。
 少女の手が、こちらの手をすり抜けている。
「亡霊か」
 初めて見た。
「ん〜、まぁ、ひらたくゆうと、な。迷惑やったらこのまま消えるで? 別に姉ちゃんに恨みはないさかい」
「ならいい。好きにしろ」
「ええの?」
「好きにしろと言っている。おまえがどうしたいかだ。上がろうが消えようがどうでもいい。とにかく早くその体勢をどうにかしろ」
 首を傾げた少女は、急に破顔し、部屋の中に飛び込んできた。
「ほな遠慮なく」
「言葉と行動の前後が逆だ。名前は?」
「ベルクト、姉ちゃんは?」
「アリスタ」
「聞かへん名前やな?」
「初対面だろうが」
 頭が痛くなってきた。
「聖獣か? おまえは」
「生きてる頃はそうやったけど、今は、どっちかってゆうと幽霊やな」
 しれっとした表情で少女は言った。
「よろしゅう、アリスタ」

 気がついたときには、もう日が落ちていた。
 講義の間に、意識がとんだらしい。教室の中には、もう誰もいなかった。
 幽霊一人を除いて。
 夜空の星のようなもので、日の出ている間はその光に混じって見えなくなるらしいが、消えうせるわけではない。ずっとくっついて来ていた。
 好奇心で部屋にあげたのは失敗だった。
 悪意ではないだろうが、一晩中はしゃぎ続けて眠れなかった。人間と言葉をかわすのは、数百年ぶりだったらしい。さすがに叩き出すのも気がひけて、朝まで付き合ってしまった。色々勉強にはなったが、なにしろ眠い。
「起きたか? ネボスケ」
「誰のせいだと思っている」
 ひどく無邪気な声音に、怒る気もどうも萎えた。それでも一応、気づいたのだろう。少し申し訳なさそうな表情になった。
「ごめんな。迷惑やな、やっぱり」
 苦笑した。迷惑なのは事実だが、どうも、嫌いになれない。
「徹夜はな。悪いが今夜からは適当なところで寝かせてくれ」
 荷物をまとめ、教室を出た。そこで、ひとりの少年と出くわした。
「エイセル」
 こちらの方から声をかけたが、向こうのほうもこちらを探していたらしい。片手を挙げて、歩み寄ってきた。
「珍しいな、居残りなんて」
「なにか用か?」
「街の方で騒ぎがあってな。話を聞いて欲しい」
「構わないが、魔将でも出たのか?」
「それっぽいんだけどな、正直、よくわかってねぇ」
「どういうことだ?」
「わからねぇからオマエに相談してんの」
「それもそうだな。いいだろう」
 欠伸交じりに、そう答えた。
「徹夜か?」
「ああ」
「やめといた方がいいぜ?」
「わかってる」
 したくてしたのではない。今日はちゃんと寝るつもりだ。
「どこ行くん?」
 ベルクトが訊ねてきた。
「ついてくるか?」
 訊ねる。
「ええの?」
「ああ」
 まぁ別に問題はないだろう。
 やはり見えていないらしい、エイセルが変な顔をした。
「なにやってんだ? オマエ?」
 まずいな。
 このままでは、ますます変人扱いになる。

 三人で連れ立って、医務室へと入った。
 他に場所がないわけでないが、とりあえずの場所と言うと、ここしか思いつかない。
 幸いというべきか否か、ベルクトの姿は医務室の主、ジークにも見えた。
 厳密には見えているわけではないらしいが、エルフのカンとやらで、なんとなくなにかが居るくらいのことはわかるらしい。
「まぁ、君自身がそれでいいなら、そのままでも問題ないだろうね」
 あまり良くはないが、追い払いたいというほど迷惑しているわけではない。曖昧にうなずいた。とりあえずエイセルに事情を理解させただけでもよしとすることにした。
「それで、なにがあった?」
 エイセルのほうに目を向け、問うた。
「ベルナの市街と郊外で、通り魔が出てる。被害者は全員生きたままバラバラに切り刻まれて、殺された」
「待て、どうしてそんなことに首を突っ込んでいる?」
「リーブに頼まれた。小遣い稼ぎみたいなもんだな」
 日に日に「傭兵」が板についていく気がして、ため息が出た。
 言うだけ無駄だとわかっているので、話を戻すことにした。
「魔将ではないのか?」
「魔力の反応がねぇんだ。オマエなら、なにか知ってんじゃねぇかって思ってな」
「ならば人間だろう」
 即座にそう答えた。魔将以外でそんな真似をする生き物といえば、それくらいしか存在しない。
「それも考えたんだけどな、違う。たぶん、足が八本ある」
 足が八本生えた、魔将とは違う生物。
「わかると思うか? そんなもの」
 蜘蛛か蛸くらいしか思いつかない。
 そう答えた時、妙な声が聞こえた。
「どうした? ベルクト」
 机の上に座り込んでいた幽霊は、笑って首を左右に振った。
 何故か、ひどく、脅えているように見えた。
「なんでも、あらへん、邪魔してごめんな、迷惑やろからどこか行っとるね」
 そう告げて、机を飛び降りる。
 その時、不意に、医務室の扉が開いた。
 踏み込んできたのは、筋骨逞しい体躯に、神官服を纏った中年男。
 エヴァンス。神聖魔法科の、確かレニーの担当教官だ。「妙な術ばっかり教えやがる」とエイセルが愚痴っていたのを聞いた覚えがある。
「失礼」
 短く告げると、目を丸くして立ち止まったベルクトのほうに目をやる。
 見えているようだ。鋭い視線で、ベルクトの目を見据えていた。
 嫌な予感がした。
「教官」
 幽霊と言うのは、一般に畏怖の対象だ。本質は異なっているが、魔将と同様、人に在らざる、人に害をなす存在とみなされている。
 だがエヴァンスは、こちらの声には応えなかった。
 数秒の静寂。
 そしてエヴァンスは、深々とため息をついた。
「幽霊を連れ込むなよ、エイセル」
「今回はコイツだよ」
 苦笑気味に応じて、エイセルはこちらを指差した。 
 どうやら、ベルクトの存在を感知し、ベルナでの事件との関連性を疑い、勢い込んで踏み込んできたらしい。
 ただ実際に対峙して「違う」とわかったようだ。飛び込んできたときに纏っていた殺気は、今はもうなかった。
「しかし、このままと言うのはまずいな。浄化をしなければ、なにかのはずみで魔に飲み込まれかねん」
 ベッドの上に座り込み、ジークの差し出した茶をがぶ飲みしながら、エヴァンスは言った。
「ウチを、祓うってコト?」
 首を傾げるベルクト。
「平たく言えば、そういうことだ。抵抗しなければ、苦しむこともない」
 穏やかな口調で、エヴァンスは言った。無骨でガサツで有名な教官だが、性根は良く、わりあい生徒にも慕われているほうに入る。
 目を瞬かせたベルクトは、数秒の間を置いてから応じた。
「ええよ」
 ひどく、あっけらかんとした口調だった。
「待て」
 そこまで簡単に同意するようなことではない。
「意味がわかって言っているのか」
「ウチを消すって、ゆっとるんやろ?」
 ベルクトは、笑顔で言った。
「ちょうどええかなって思うて。このまま、ずっと、生きてくのもしんどいし」
 そう言ったあと、生きとるゆうのはちゃうかな、と呟いた。
「よう覚えとらんけど、たぶん、もう、二百年か三百年くらいは、生きとる。話し相手も、おらへんかったし。ええ加減もうええかなって、ずっと、思うとったから」
 言葉に詰まった。
 聖獣の亡霊。コンピニア大戦で絶滅したとされる種族だ。逆算すれば、五百年もの間、ひとりで世界をさまよい続けて来たことになる。それこそ、どれだけの間、そうして来たのか、思い出せなくなるほどの時間だ。
「それに、おっちゃんのゆっとる通りやしな。とうの昔に死んどるもんが、いつまでも、こんな風にふわふわやっとるわけにもいかへんやろ?」
 わかっているらしい。考えても、いるようだ。自分が口出しするのは、筋が違うだろう。
「そうか」
 どうにか、それだけ言った。それでもどうも、複雑だったが。
 困ったように笑ったあと、ベルクトはエヴァンスに目を向けた。
「ほな、やろか、おっちゃん」

「ヒマなんやけど」
 神聖魔法科の礼拝堂、祭壇の上にあぐらをかいたベルクトが大きくあくびをした。
 長期戦になった。かれこれ二時間は、こうしている。
「そういうものだ。我慢しろ」
 正直同感だったが、一応窘めた。
「かかりすぎだろ」
 同席していたエイセルが言い、立ち上がった。ラシューヌへの祈願の言葉を紡ぎ続けているエヴァンスに声をかけた。
「うまくないのか」
 それで、集中の糸が途切れたようだ。エヴァンスは大きく息をついて振り向いた。
「ああ、どうも、おかしい。理由はわからんが、なにかが、ひっかかっている」
「現世への執着って奴か?」
「いや、違う。もっと、外的な力だ。なにかは分からないが、感触は、呪いに近い」
「呪い、ね」
 本人も「呪い持ち」のエイセルは、面白くもなさそうに鼻を鳴らした。
「なんか、心当たりは?」
 ベルクトの尻尾の毛が逆立った。
「あらへんけど?」
 明らかにとぼけている、見事に顔に出ていた。
 と言っても、エイセルには見えていないし、言葉も届いていないので、代わりに伝えてやった。
「ないと言っている」
「言いたくねぇのか?」
「ひらたくゆうと、そうやな。堪忍してや」
 何処か、辛そうな表情だった。
「本当に、わからんらしい。勘弁してやってくれ」
 嘘になるが、そう伝えた。あまり、追い込みたくなかった。聞こえているはずだが、エヴァンスも同じようなことを思ったらしい。なにも言わなかった。
 今日のところは、そのまま解散ということになった。
 言い出したのはエイセルだが、エヴァンスのほうも方策を練るための時間が必要だと判断したようだ。すんなりと、その提案を受け入れた。
「何故、言いたくない?」
 自室へと向かう階段を上りながら、訊ねた。
「言うても、ええよ」
 あっけなく、ベルクトはうなずいた。
「ならどうしてさっき、話さなかった」
「あそこで話せる自信は、あらへんかったから。大事なことって、上手く、話せんもんやから」
 そう言って、また、困り顔で微笑する。
「聞かされても、困るだけかも知れへんけどな」
 そのまま部屋へと入り、荷物を椅子の上に置く。
「跳びはねるな」
 恐らくなんの意味もない奇声をあげてベッドに飛び込み、跳びはねる幽霊をたしなめ、嘆息した。
 つくづく、妙なものに出会ったものだ。自分も大概だと言う自覚はあるが、ここまでではないだろう。
 ベルクトがぴたりと動きを止めた。
 顔が、青ざめている。
「どうした?」
 問うた。そこまできつい口調で言った覚えはない。
 回答はなかった。自分を見ているわけではないようだと気づき、その視線を追うと、天井までたどり着いた。
 すぐに、理解できた。
 異様なものが、天井に張り付いていた。
 巨大な、蜘蛛。
 身体の幅は、三メートル近い。八本の足と、黒光りする鋼鉄の外骨格、そして蜘蛛の頭の上には、銀色の甲冑を纏った騎士に似た、人の上半身が生えていた。
「出ろ、ベルクト」
 そう声をかけたことで、硬直が解けたらしい。幽霊は部屋を飛び出す。
 それを見極めてから杖を手に取り、自分も部屋を出た。
 これか。
 エイセルが言っていたのは、恐らくこれのことだろう。
 部屋の中で器用に足を動かし、蜘蛛が床に降りた。
 兜の奥で光る緑色の双眸が、こちらに向く。
 その次の瞬間、蜘蛛の顎から白いものが飛んだ。
 糸か。
 反射的に、魔法を撃った。
「ウィンダート」
 屋内で使うような魔法でないのはわかっているが、とっさに出てきたのはこれだけだった。
 ぎりぎりで、間に合った。
 眼前に出現した乱流が、殺到した糸を四散させ、そのまま正面から蜘蛛を飲み込んだ。
 大気の爆発が、蔵書を景気良く吹き飛ばす。
 だが、蜘蛛は無傷だった。
 効かないタイプか。
 ガーゴイル同様、魔法が通用しないようだ。厄介な相手が出て来た。ここは魔法学校だ。魔法なしで化物とやりあえるような人間など、ほとんどいない。思いつく限りでは、エイセルとジークくらいのものだ。
 騒ぎに気づいたか、周囲の部屋の生徒たちが顔を出してきた。
「隠れていろ!」
 そう叫ぶが、数人が杖を手に飛び出してきた。
 めいめい勝手に、呪文を唱え、叩き込むが、まるで効き目が無い。ただ、怒らせただけのようだ。蜘蛛の上の甲冑が、片手を上げた。
 奇妙な音が響いた。
 それと同時に、手足を撃ちぬかれ、生徒が倒れた。
 なんだ?
 飛び道具の類だろうが、矢も弾体も見えない。魔力も感じなかった。
 さらに数回、同じ音が響いた。
 次々と、生命が絶たれた。
 最初は勢い込んで立ち上がった生徒達も、恐慌を来たし、逃げ散った。
 蜘蛛はそれを追う代わりに、こちらをねめつけるように見下ろしてきた。
「なんだ、貴様は」
 訊ねるが、答えはなかった。
 代わりに、肩を撃ち抜かれた。
 撃たれて初めて気づいたが、ごく小さな熱の塊を高速で投射する武器のようだ。
 それと同時に、糸が飛ぶ。
 痛みで、集中が乱れる。今度は、間に合わなかった。粘つく糸の束に、簡単に絡めとられていた。
 鋭い杭に似た脚の一本が、糸の間から抜けた腕に突き刺さった。
 なにかが、聞こえた。
 蜘蛛が、笑っている。
 歪んだ、歓喜の笑い。
 初めて、恐怖を感じた。
 その時だった。
 横合いから、声が飛んできた。
「アリスタ!」
 ベルクト。まだ、逃げていなかった。
「馬鹿、逃げろ!」
 見えないかも知れないが、万一見えていればことだ。簡単に、引き裂かれてしまうだろう。
 だがベルクトは、笑って首を左右に振った。
「ごめんな、アリスタ。迷惑、かけてもうた。こんなに近くに来とるなんて、思っとらんかったから」
 寂しげな表情だった。
「なにを、言っている?」
「こいつは、ウチを追って来たんや。そうやろ? バケモン」
 返事はなかったが、その通りだったようだ。蜘蛛はアリスタからベルクトの方に視線を移すと、猛然と突進した。
 甲冑の二本の腕が、いつの間にか、長い二本の刃に変わっていた。
 真横に飛んだベルクトだが、外しきれなかったらしい。すれちがったあと、肩を引き裂かれているのが見えた。霊体を切るための武器のようだ。
「ベルクト!」
 少女はまた、微笑した。
「お別れや、アリスタ。迷惑かけてごめんな、楽しかったで?」
 そういうなり、廊下の窓から寮の外へと身を躍らせる。
 声が聞こえた。
「こっちや、バケモン!」
 それを追い、蜘蛛は壁を突き破り、飛び出していく。
 くそ。
 糸から逃れようともがくが、びくともしない。力を入れたせいで、腕の痛みが激しくなっただけだった。
「暴れないで」
 頭上から、耳慣れた声が響いた。
 レニー。エイセルの妹で、兄の方も一緒だった。
「先に切るか?」
「うん」
 レニーがうなずくと、エイセルは背中から抜いた剣でアリスタの拘束を解いた。
 立ち上がる。
「無理しないで」
 レニーの言葉に、首を左右に振る。
「外の様子が、見たいだけだ」
 エイセルが肩を貸してくれた。
 窓から広場を見下ろしたが、そこにはもう、少女も、蜘蛛も、居なかった。
「なんなんだ、あれは」
 舌打ちをして、つぶやいた。
 誰に向けた言葉でもなかったが、答えはあった。耳馴れない声が、耳朶を打つ。
「まだ、動いておったとはの」
 老人の声。振り向いた視線の先に居たのは、やはり見覚えのない、小柄な老人だった。
「戻ってたのか、爺さん」
「ついさっきの」
 老人は、エイセルの言葉に柔らかい口調で応じた。
「知り合いか?」
「ああ、紹介してなかったな、ティキだ。発明家、で、良かったっけか?」
「そうじゃ、宿無しでの。ここで世話になっておる」
「なにか、知っているのか?」
「それなりに、じゃがの」
 静かな口調で、ティキは言った。
「コンピニアの残党、いや、遺産じゃよ」
「魔道科学文明か、滅びたはずだろ?」
 エイセルが訊ねた。
「ああ、五百年前にの。じゃが、すべてが死に絶えたというわけではない。コンピニアは、聖獣を狩っておった。聖獣の持つ、不老不死の力を自らのものとするためにの。そのためにコンピニアは、いくつかの機械兵器を造り出した。さっきの蜘蛛は、おろらく、そのひとつじゃ。たぶん、暴走しているんじゃろうな、元々の標的が絶滅したことにも、自身を生み出した文明が滅びたことにも気づかぬまま、その気配を追いつづけておる」
「それで、ベルクトを追っていたということか?」
 胸が、重くなるのを感じた。
 コンピニアが、聖獣が滅んだのは、五百年前だ。五百年もの間、逃げ続けてきたのだろうか。
 とうの昔に、死んだというのに。
「じゃろうな」
 ティキがうなずく。アリスタは奥歯をかみしめた。
「落ち着けよ。らしくないぜ?」
 エイセルが言った。
「オマエに、なにがわかる」
 言ってしまったあと、失言だと気が付いた。言い方は雑だが、心配してくれている。
 だがエイセルは、さして気にした風もなく続けた。
「ひとりでやって、潰せる相手じゃねぇだろ? 魔法も効かねぇ化物と、魔術師のオマエがどうやってやりあうつもりだよ?」
「オマエも魔術師だろうが」
 エイセルは数秒沈黙した。
「そうだったな、そういや」
 冗談かと思ったが、少なくともさっきは本気で忘れていたらしい。不覚にも、少し笑ってしまった。怪我の功名で、少し肩の力が抜けた。
「なにか、考えでもあるのか?」
「いや、ねぇよ。まずは当たってみなけりゃなんとも言えねぇだろ」
 エイセルは笑って言った。